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『十九世紀ロンドンの光と影―リージェンシーからディケンズの時代へ―』松村昌家(世界思想社)

ディケンズ研究の大家である、松村昌家氏の2003年の著書『十九世紀ロンドンの光と影―リージェンシーからディケンズの時代へ―』の紹介です。

個人的には、会社員時代に院試を受けるか悩んでいた時に読み、19世紀ロンドンとその時代の小説の面白さを再確認し、心震えた、思い出深い一冊。

 

『十九世紀ロンドン生活の光と影―リージェンシーからディケンズの時代へ―』松村昌家

本書の内容はこちら。

リージェンシー(摂政時代)のダンディの世界から、ディケンズ時代の煙突小僧の世界にいたるまで、十九世紀ロンドンのあらゆる種類・身分の人びとの生活の場に踏み込んで、そのありのままの生活風景や心情を多くの挿絵を援用しながら活写する。(帯より)

 

1.リージェンシー・ロンドンの光と影、2.逆境を越えて、3.子ども世界の明暗、という三部構成の中で、リージェンシーの時代、ダンディズムやクリノリンの流行、ジェントルマン幻想、サミュエル・スマイルズの『セルフ・ヘルプ』、オーストラリアへの移民、酷使されるお針子や煙突掃除の子供たち、ヴィクトリア朝のユダヤ人像、挿絵画家ジョン・リーチ、最近「怖い絵展」でも展示され話題になったポール・ドラローシュの絵画、など19世紀のイギリスを彩る重要な事象が、ディケンズ作品とロンドン生活をキーワードに論じられていきます。

19世紀=ヴィクトリア朝と認識されがちだけれど、ヴィクトリア朝が始まるのは1837年から。

ヴィクトリア朝という時代も、ヴィクトリア朝を代表する作家ディケンズも(注:ディケンズの執筆活動はヴィクトリア朝以前から行われている)、突然生まれたわけではないとして、その前のリージェンシーの時代から本書は始まるが、この1章がとにかく面白く、興味深い。

リージェンシーとは、のちのジョージ四世が摂政皇太子であった1811年から1820年の時期を指す。「快楽の王子」と呼ばれた皇太子は華美なものを好み、贅をつくしたが、リージェント・ストリートの建設などを行ったのもまた彼だった。

しかし、本書のタイトルが示すように、このストリートは西の高級住宅地である光の区画と東の貧困地帯である影の区画を明確に分ける境界線になっていた。そして、その西と東のコントラストは文学の題材としても用いられる。ここで紹介されるのが、ピアス・イーガンの『ロンドンの生活』である。この小説の主人公はトムとジェリー。そう、のちにアメリカでアニメになるトムとジェリーの原型である。さらにこの作品はジョージ四世に捧げられている。

しかし、ここでの二人はネコとネズミではなく、人間、それも財産を持った紳士二人である。二人がロンドンの様々な場所を訪ねるのだが、興味深いのは、彼らがお上品な西側だけでなく、東側のロンドン、イースト・エンドの、読者が行けないような場所にもガンガン訪ねて行くところだ。

イーガンは作中で、かすり傷一つ負わずに「人生をまのあたり」に見たいとお感じになる」読者に喜んでもらうために二人の冒険を語ると述べるが、これはまさに読者のイースト・エンドなどのロンドンの暗部への好奇心を満たすものであり、そのような好奇心が存在していたことを明かしている。そして、それはヴィクトリア朝の人々にも共通して見られる好奇心であり、現在の私たちがヴィクトリア朝を見る眼差しにも見られる好奇心であることは、ヴィクトリア朝の表象の多くがロンドンの暗部を扱っていることからも明らかだろう。

階級的なコントラストだけではなく、昼と夜の逆転生活など、トムとジェリーのような遊び人の紳士たちの生活は、ワイルドの『ドリアン・グレイの肖像』を思わせて興味深い。

『ロンドンの生活』はパロディ本も多く出て、戯曲も作られ大ヒットする。本書では、このイーガンのロンドンのスケッチとその後のディケンズのロンドンの描き方に共通点を見出していくのだが、このように本書は、ディケンズ作品とロンドン生活を中心にしながらも様々な切り口を提供してくれるため、19世紀イギリスに関心のある人にとっては最適な入門書にもなっていると言えるだろう。

たとえば、私は本書で、ダンディズムやボー・ブランメル、ヴィクトリア朝の犯罪や挿絵画家に関心を持ち、その後さまざまな文献を読み漁ることになった。リージェンシーの時代に興味を持ったのも本書がきっかけだった。

ディケンズやイギリス史に精通した人はもちろん、19世紀イギリスに興味を持った人には自信を持ってお勧めできる一冊。松村先生の本はどれもそうだが、非常に読みやすい。本書もその例外ではなく、読みやすく面白く、色々な刺激やヒントを与えてくれる。研究書は難しいのでは…と思う人もぜひ手にとってみてほしい一冊である。